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サウンドスケープ(ロバート・マレー=シェーファー)
日本のサウンドスケープは?また、その歴史は? 西洋モデルと日本の風景
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ガイドブック(強制的美学)の変遷: 公共空間における偉人像→眺望→自然空間→奇抜なもの(差異化) メディアと風景:富良野 |
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参考文献:
参考サイト
登山の動機
p.309「今日[1335.4.26]この地方で一番高い山に登った。唯一の動機は高いところに上ればどんな偉大なことが得られるかを見極めたかったからである。数年来、この遠征のことを夢想してきた。というのも人の境涯を決する運命により、子供時代よりこの地に住んできたからである。それゆえ、遠くから見えるこの山はいつも私の眼前にあり、いつかは登ろうと考えていたのだが、その思いを今日ついに実現したのである。」
羊飼いの話
p.310「(誰といっしょに行こうか迷った挙げ句)結局、家の方に助けを求め、弟にお願いした。彼は兄弟ばかりか友人の立場を得ることができ、目を輝かせ法外に喜んだ。予定の時刻に家をでて、夕方には山の北側のふもとにあるマロセーヌ村に着いた。そこで一泊し、私たちは下僕二人だけを伴い、今朝登山した。なかなか大変だった。ヴァントゥ山はきわめて急な岩盤の固まりからなり、ほとんど登るのが不可能に見える。陽の長い一日で、空気も澄んでいた。私たちは心身ともに力がみなぎっていた。[...]谷間の一つで年老いた羊飼いに出会った。彼は私たちを何とか思いとどまらせようとした。何でも、彼も50年ほど前同じような若く、情熱にまかせて山頂まで登ったという。だが、体中痛くなった代償は疲労と後悔、それに服と体中を岩やイバラに引き裂かれただけだった。彼と仲間が知る限りでは、彼より前にも後にも登山を試みた者はいない。だが、彼の忠告は私たちの気持ちを弱めるよりも高めてしまった。若さとは警告には耳を貸さないものなのだ。」
身体のレベルアップ(=登山)と霊魂のレベルアップ(=救済)のパラレリズム
p.312「こうして何度も道を間違えた挙げ句、私は谷間の一つに腰をおろし、物質的なことから非物質的なことへ高邁な考えを移し、こう考えた。「汝が今日登山途中にくり返し経験したことは、祝福された人生への旅路では汝だけでなく多くの者に起こることだ。だが、それは人が容易に気づくことではない。肉体の動きは明らかで外から見えるが、魂の動きは目に見えず隠されているからである。我らが祝福されたと呼びうる人生は高所に求めるべきであり、そこへの道はまっすぐである。間には多くの丘が横たわっている。だから我らは栄光の階段をますますしっかりした足取りで上らねばならぬ
。頂上で我らの奮闘も終わり、目的の地に着く。」
山頂からの眺望1
p.313「(山頂に着いた)当初は、空気が澄み、眼前に拡がる光景に私は茫然とした。足下の雲をながめ、アトス山やオリンポス山について読んだことより[p.314]
無名の山で私がこの目で見たことの方が事柄は同じでも一層信じがたいように思えた。 私がイタリアの方へ目をやると私の心もそちらへ向かった。雪をいただいた険しいアルプスがすぐそこに聳えているように見えたが、実際はかなり離れている。この同じアルプスをローマ人の名をもつ恐るべき敵[=ハンニバル]が「酢で岩を砕きながら」越えたという。正直言って、イタリアの空を心の目で思い浮かべ、思い焦がれた。」見ることと読むこと
山頂からの眺望2
p.316「まるで突然眠りから覚めたように、あたりを見回し、西方を凝視した。フランスとスペインを隔てるピレネーの連なりは見えなかった。障害があるわけではなく、人の視力は不十分なものだからである。だが、右の方にはリヨン地方の山々、左にはマルセーユの港やエーグ・モルトの海岸線が極めてはっきり見える。実際には数日を要するぐらい離れているのだが。眼下にはローヌ河が流れている。」→大気遠近法による錯覚
地上的・身体的感動/vs/天上的・精神的感動
p.316「このように、あるときは眼前に拡がる地上のものに注意を向け、またあるときは(身体を高いレベルに上げたように)私の魂をより高いレベルに引き上げようとした。このときふと聖アウグスチヌスの『告白録』をめくってみる気になった。これはお父様が私にくれたもので、作者と贈り主の思い出に常に携行している。[p.317]サイズは小さいが底知れぬ
魅力に満ちたこの本をでまかせに開いてその頁を読むことにした。どうせどこを開いてもためになる篤信的なことが書かれているのだから。開いたところは第10の書であった。弟は私の口から聖アウグスチヌスの一節が聞けるというので耳をすましている。神と弟が証人だが、私が目を落としたところにはこう書かれていた。「
人は高い山、海の荒波、ゆっくり蛇行する河、丸みをおびた海、星の動きを見ては不思議に思うが、自分自身を観ることはない。」私は恥ずかしくなり、つづきを聞こうとする弟にそっとしておいてくれるよう頼み、本を閉じた。地上のものに相変わらず賛嘆の念を持ち続けている自分に腹が立った。魂のみが素晴らしいのであり、魂が偉大なとき魂はその外部には何ら偉大なものを見いださない、とは異教徒の哲学者たちからさえずっと以前に学んでいたはずではなかったか。本当のところ、ヴァントゥ山はすでに満足ゆくだけ見ていたので、今度は心の目を私自身に向けた。このときから山の麓に戻るまでの間、私は一言も口をきかなかった。ずっとアウグスチヌスの言葉のことを考えていたからである。というのも、私が単なる偶然でその箇所に目をやったとは思えなかったからだ。」
カントに依れば審美的態度をとりうるためには、対象に対する実利的関心から自由にならねばならない。近代以前にももちろん山はあったが、それが登山の対象とされたのは主に実用的な目的(狩猟、伐採、採集など)であり、非実用的な登山は巡礼、山岳信仰といった宗教的な登山に限られていた。近代以前は自然に対する実利的(実践的)な関心から解放されることはなかったのだ。山に対する美的関心が生まれるのも生産労働から解放され、観照的態度(contemplation)が可能になる近代を待たねばならなかった。
ペトラルカは、非実用的な登山でありながら、非宗教的な登山(そこに山があるから登る)という近代的登山を体験し、特にそれを記録に残した最初の人とされる。彼の「父への手紙」では確かに登山そのものによる感動に言及され、これを身体の上昇による感動とする。登山の段階では身体の上昇と霊魂の上昇に平行関係が予想され、高山に登ることにより霊魂の高みに達するのではないかという期待感が表明される。ところが下山段階においては、アウグスチヌスの『告白録』を出任せに開いたところちょうど山への言及箇所にぶつかるという奇跡的なエピソードを通 して、平行関係をあっけなく否定する「真理」に思い当たる。つまり、登山による感動があくまでも身体的なものに過ぎず、それと精神的なレベルアップは無関係だということになるのである。登山そのものがもたらす感動を経験しながらも、神学イデオロギー(アウグスチヌス)によりその価値が否定され、ペトラルカは挫折感を抱いて下山するのである。
ペトラルカのヴァントゥ登山に読みとるべきなのは、近代的登山の先駆けの姿よりもむしろ、神学が登山という本来強烈な身体的体験をも凌駕する中世イデオロギーの圧倒的な強さである。それは目に映る現実世界とは別な本源的な世界を求める眼差しであり、西洋においては現象面の背後にイデアやロゴスといった観念や法則を同定しようとした認識論的伝統につながる。現象的なものは身体も世界も原罪により堕落した不純なものなのである。contemplatioとは思考の対象に没入して自分を含むそれ以外の世界を忘れることだが、ペトラルカが引用したアウグスティヌスのことば(「 人は高い山、海の荒波、ゆっくり蛇行する河、丸みをおびた海、星の動きを見ては不思議に思うが、自分自身を観ることはない。」)は正に我を忘れて風景に魅入らせる登山経験を contemplatio として批判していることになる。なお、中性神学において、contemplatio は cogitatio, meditatio に次ぐ三番目の霊操(心霊修行)である(A. Lalande, Vocabulaire technique et critique de la philosophie, PUF)。
A・ベルクは上記でペトラルカがたまたま開いたとされるアウグスチヌスのことばを引いて、外観よりも内観を尊んだためキリスト教の西洋が風景を発見するにはルネッサンスを待たねばならなかったと述べている。
"Augustine says here that, instead of admiring natural sceneries, people should consider what is inside themselves. There, inside what he calls memoria and which we now call conscience, dwelles God : manes in memoria mea, Domine (X, 25, 36 : You reside in my conscience, Lord). Yet Augustine himself did not discover this until his conversion : intus eras et ego foris (X, 27, 38 : You were inside and I was outside)." A.Berg, "Landscape and the overcoming of mdernity - Zong Bing's principle -"
従来米作についてはBC500〜400年頃中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちによってもたらされたと考えられてきたが、2003年5月、国立歴史民俗博物館は水田耕作が日本に伝わったのはBC1000年頃とする研究結果を発表した。
農業革命「この技術革新に伴って、ヨーロッパにおける都市と農村の対立的存在、支配と被支配(貴族と平民)の原理、「祈る人(聖職者)、戦う人(貴族、騎士、エリート層)、働く人(農民、商人、職人、労働者)」の伝統的三身分、そして自然を耕し自然と戦い自然に手を入れ、自然を縊使し飼い慣らし造り変えるという、ヨーロッパ独特の自然観など、強烈な個性を備えるヨーロッパ文化の原型が形作られることになる。」木村尚三郎『中世ヨーロッパ』有斐閣親書、「12世紀の意味」14-15頁
「冶金術の進歩と普及により、人々の手に斧や鉈鎌が渡るようになり、ヨーロッパ人はここで猛然と森との戦いを開始することになる。ヨーロッパの森は平地林であり、当時は原生林がうっそうと生い茂って、ヨーロッパは全体に今日よりも暗くかつ湿っていた。なかでも落葉喬木のカシやブナの森には腐植土があつく形づくられており、森を切り拓き、根を掘り出し、犁返しをして種子を蒔けば、まちがいなく良い小麦畑となった。こうして大開墾運動が展開され、重く湿った腐植土を耕すために鉄製の犁が用いられ、これを動かすために車が付けられ(有輪犁)、これを牛馬に牽かせるために、家畜の繋駕法に関する三大発明がなされた。」同上、16頁→肩掛け索綱、縦列繋駕、蹄鉄
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ブナ(hêtre) |
9世紀頃のフランスは人口は希薄でほとんどの地方が森林だったようだ。「無人の森林地帯の中に、村や荘園が点のように開け、そこだけに人々がひしめきあって住む、それが九世紀の風景だったのであろう。」渡邊昌美「十二世紀の社会」5頁(木村・志垣編『概説フランス史』有斐閣選書)
その後、上述の農業革命により開発のテンポが11、12世紀に急速にアップするが、早くも13世紀半ばに開発は停止し、後半には廃村すらあらわれる。「パリの周辺では1230年から後に建設された村は見いだされない」同上、2頁
「1050〜1350年の三世紀の間に、フランスは数百万トンの石を切り出し、80のカテドラル、500の大教会、数万の小教区教会を建てた。古代エジプト史のどの時代よりも多くの石をフランスはこの三世紀の間に荷車で運んだのである。」Jean Gimpel, Les Bâtisseurs de Cathédrales
「西欧ならば、都市を俯瞰した地図の中には背後に山並みを描く場合もあるが、都市内で人間の眼の視点から都市空間を描きながらその背後にシンボルの山を描くということはまずありえまい。一歩城壁の中に入ってしまえば、そこはもはや自然から遮断された人工的な都市空間なのであり、人間が築いた建造物が都市美を創り出している。ところが日本の都市には、都市内部と外に広がる自然風景との間に緊密なやりとりが見られる。広重の「名所江戸百景」に典型的に見られるように、江戸の町では日本橋、桜田門、回向院などいたる所で富士の姿がその場所の景観を印象づけていた。」陣内秀信『東京の空間人類学』ちくま学芸文庫、178-179
「江戸では、都市のなかでの<遠景>が決定的に重要なものとして認識されていた。都市を描いたパノラマのなかで、富士、筑波山などの実際には遠く隔たった要素が、むしろ誇張され、手前に引きつけられて大きく堂々と描かれているのである。」同上、181-182
当然のことだが、「自然」は人類があらわれる前から存在していた。そこに現れた人類は自然との関わりのなかで生きることになるが、自然と闘いそこで生き残る努力を続けることで、自然を「環境」としてきた。すでに環境は人が自然とかかわるその関係性のことである。だが、この時点ではまだ「風景」について語ることはできない。風景は、人が生きるために自然とかかわる限りでは現れてこないからである。生きるための現実的な関心をカッコに入れ、宗教的な踵からも解放され、ひたすら審美的な態度をとれたときにはじめて姿をみせるのが風景である。
西洋においては、どうか。ローマ時代には室内絵画などに庭園が描かれており、さらに場所の魅力(amoenitas loci)という観念はあらわれているが、魅力はいることの快楽であり、距離をとって眺めることの快楽ではない。西洋中世では、ペトラルカがヴァントゥ登山をしたときに後のアルピニズムを思わせる体験をするのだが、それにもかかわらず下山途中でキリスト教的楔(アウグスティヌス)が頭をもたげ、自然の外観の観賞をあきらめ、ついには自己の内観の省察を選ぶのである。アウグスティヌスの桎梏は結局ルネッサンスまで続くことになる。
A・ベルクは風景成立を判断する基準として以下の5つを挙げ、風景がはじめに誕生したのは中国であるという。
- 風景論が存在するか
- 「風景」を意味することばがあるか
- 風景画が存在するか
- 観賞用の庭園が存在するか
- 環境の文学的表現が存在するか