ヴィリエ・ド・リラダンの『ヴェラ』:詩学的読解の試み
森田秀二
本稿は詩学についての一般的考察を含む、テキスト分析の実践の試みである。コーパスとなる『ヴェラ』のテキストは後に述べる理由から5つの部分([A][B][C][D][E])に分けることができるが、分析上は[A]、[B][C][D]、[E]の三つに分け、それぞれに異なったアプローチを用いることにする。
[A]の分析
以下に[A]の全文を掲げる(ゴチック体)。その後に[A]を構成する12の断片の分析が続く。
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(1)「ヴェラ」 (2)肉体の形は、肉体にとってその実質よりも本質的である。『近代生理学』 (3)「愛」は「死」よりも強し、とソロモンは言った。まさしく、その神秘な力はかぎりがない。(4)数年前、パリで、秋の日暮れどきのことだった。(5)ほの暗いフォーブール・サン=ジェルマン地区へと向かって、ブーローニュの森での散策時間もすぎて帰り遅れた何台かの馬車が、すでに燈をともして走っていた。 |
(1)ヴェラ:題名はそれ自体すでに謎である。誰の名前なのか?その答え(ダトル伯爵の死んだ愛妻)は(11)で与えられる。作品は題名により開かれ、閉じられた後にも閉じられたこと、つまり読書体験の証であるかのように記憶に留められる。本来、人名とはその指示対象(référent)に固着し、意味内容がミニマムの記号である。ところが、本短編の題名に関してはダトル伯爵がヴェラ(Véra)を金星(Vénus)と同一視するときの頭韻、彼女のスリッパに縫い取りされた銘句("Qui
verra Véra l'aimera")に見られる複合韻(rimes
mêlées)などによって意味(エロス)が増幅され、テキストの自己生産性そのものに寄与する特権的記号となっている。なお、この作品に影響を与えたポオの<愛と死>をテーマとした作品群も女性の名を題名に据えている(『ベレニス』『モレラ』『リジイア』『エレオノーラ』)。
(2)肉体の形は、肉体にとってその実質よりも本質的である。『近代生理学』:肉体には形相(forme)と実質(substance)があり、形相なき実質はありえないが、実質なき形相は(霊的存在として)存在しうる。エピグラフはこれから始まる物語をある意味では解説・要約しているのだが、それがどういう意味でそうなのかをはじめから明かすことは勿論しない。
(3)「愛」は「死」よりも強し、とソロモンは言った。まさしく、その神秘な力はかぎりがない:物語外の世界からの知の<引用>。冒頭に置かれ、ここではエピグラフと似た機能をもつ。物語の予言的要約であり、これから始まる物語はこの知の正しさを証明する一例となろう。ヴェラの<肉体の形>はダトル伯爵のいくぶん自己欺瞞的な想像力によって維持され、最後にはヴェラの(一時的な)復活という超自然的クライマックスを迎える。本短編が「愛の力で、人気のない屋敷の中に、妻の生命と存在を創り上げたダトル伯爵の深遠で全能な意志」(本文より)の物語である以上、その全体をソロモンの言葉をなぞったひとつのアレゴリーとみなすこともできる。
(4)数年前、パリで、秋の日暮れどきのことだった:物語の<とき><ところ>を表す。詳細な情報ではないが、民話の定型「むかしむかしあるところに...」などの不特定的情報に比べれば、時間的に限定され(「(今から)数年前」は語りの現在を間接的に示し、時を歴史化する指標[シフター]である)、空間的にも現実のレフェラント(「パリ」)をもっており、現実そのものを指さすというリアリズムの仕草が見られる。それはまた、「むかしむかしあるところに...」がある世界をそっくり現出させ、始動させるという呪術的な口上であるのとは異なり、「世界はすでに存在しており、これからすることはその世界の一断面
を切り取る作業にすぎない」と言うに等しい。
(5)ほの暗いフォーブール・サン=ジェルマン地区へと向かって、ブーローニュの森での散策時間もすぎて帰り遅れた何台かの馬車が、すでに燈をともして走っていた:空間・時間の状況設定はさらに具体的になり、ブルジョワ街の当時の雰囲気さえ伝え、物語にリアリティを与えている。ここでロングショット(全景=総合)ではじまった客観的なカメラワークは観察の一般
的なメカニズムをなぞりつつ、徐々にアップ(=分析)しながら(11)まで続く。
(6)なかの一台が、年を経た庭園にかこまれた、とある広大な貴族の邸宅の正面
玄関の前に停まった:(5)の一部にカメラがフォーカスを向ける。
(7)玄関のアーチの上には、石の盾形装飾が乗っていて、古いダトル伯爵家の紋章がついていた。すなわち、青地に中央に銀の星であり、王侯の帽子を戴いた銀地黒斑模様の縁の反
り返った王冠の下に、パルリダ・ウィクトリクス《蒼白の勝利》という銘がある:玄関のアーチを仰角ぎみにとらえたカメラは上方移動(ティルト・アップ)かつ/または前方移動(ズーム・アップ)して紋章をアップでとらえる。紋章学的な記述1
は一般的な読者の理解力には働きかけない(ということは、読み飛ばされる)が、少なくとも主人公の由緒ある家系を強調する機能はある。先を急ぐ<語り、読み>の観点からは余計な(贅沢な)ディテールということになろうが(「紋章なんてどうでもいい、それが本筋とどう関係するのか?」)、一つの世界の相似物(シミュラークル)そのものを提供しようとするリアリズムの仕草を支えるのはこうした記述である。ラテン語の銘も家柄の古さを示す指標だが、《蒼白》はこの物語のトーンをあらわす色でもある。
(8)重い扉が左右に開けられた。三十歳から三十五歳ぐらいの、喪服を着て、死ぬ
ほど顔の蒼白い男が馬車から降り立った。玄関の階段では、召使いたちが無言で手燭をかかげていた。男は召使いたちを眺めもせず、階段を登って中にはいった:カメラは扉に下方移動(ティルト・ダウン)し、今度は馬車の降り口をミディアム・ショットでとらえたところに男が降りる。玄関の階段のミディアム・ショット。男のミディアム(あるいはバストかウェスト)ショット。《蒼白》の男はカメラのフォーカスが向けられただけで<謎>と化する。一体何者なのか?その答えはすぐに与えられる。
(9)それはダトル伯爵だった:ここまでは客観的なカメラワークで、男は無人称の視線(カメラ)の客体にすぎなかったが、ここではじめて視覚的ではない情報(客体の素性)が与えられたことになる。
(10)よろめきながら、伯爵はあの部屋へと通じる白い階段を登った:カメラは階段を登る伯爵を仰角ぎみにパンして追う。
(11)その部屋で、彼はその日の朝、ビロードを張りつめ、すみれの花で包んだ棺の中に、波のような薄い麻布にくるんで、愛欲の夫人、色蒼ざめた妻、彼の絶望の源であるヴェラを横たえたのだった:その日の朝の出来事についての短い解説的フラッシュバック。「愛欲の夫人、色蒼ざめた妻、彼の絶望の源であるヴェラ
」の原文 sa dame de volupté, sa pâlissante
épousée, Véra, son désespoir
では<所有形容詞の女性形(sa)+開音節(é)>が二度続くことにより生じるクレッシェンドが
Véra で小休止し、<所有形容詞の男性形(son)+閉音節>のクライマックスに達する(子音p、sの動きもおもしろい)という音のミニ・ドラマが愛欲→色蒼ざめた→絶望という意味のミニ・ドラマと見事に融合している。
(12)階上で、扉は静かにじゅうたんの上で押し開かれた。彼は喪の幔幕をもたげた:絨毯の上をすべる扉の俯瞰アップ(扉が開くかすかな音とともに)。
前触れもなくいきなり物語がはじまる。全景をとらえたカメラは次に一台の馬車をとらえ、それが停まった邸宅をフレームにおさめたうえで、馬車から降り邸宅へ入る男を追う。総合から分析へと展開する通
常の観察のメカニズムを模したカメラ・アイ。カメラというのはもちろん比喩であるが、19世紀小説のトポスのひとつでもあるこうした小説的視線がカメラに喩えうるという事実には意味がある。カメラが依拠する存在論とは、世界が予めあり、その一部にたまたまカメラが向けられるというものだ。世界はすでに、そしてカメラとは無関係にある。存在論的には被写
体はカメラに先立つ。ただし、たまたま居合せたカメラは被写体をその歴史性・偶然性ともども刻印してしまう。ある日、ナポレオンの末弟の写
真を前にしたロラン・バルトは「皇帝を見た目を自分が見ている」という事実に眩暈を覚えることになるだろう2
。ナダールのポートレート写真が惹起する感興も同質のものだ。モデルたち(ボードレール、ネルヴァル、ゴーティエ...)は勿論もう存在しない。「だが、彼らの眼差しは残る。その眼差しの彼方に永遠に現存する第2帝政とともに。」(サルトル)3
。アンリ・カルチエ・プレッソンの「決定的な瞬間」にしても日常世界の偶然性(contingence)から自由になった瞬間ではない。男女二人が接吻し、それを犬がテーブルの下から見やるというあまりにも日常的な瞬間が必然性の仮象を帯びるのは、ひとえにフレーミング(空間的断片化)とシヤッター(時間的断片化)による。だが、二重の断片化は世界を廃棄するのではなく、中断しつつ暗示するのである。カメラは機械的に、すなわち絵画とは異なり人間的な媒介を非本質化して、フレームにおさまった被写
体を複写する。小説に投げ込まれた無人称の視線が担うのも同様の存在論、すなわちリアリズムの存在論を支える仕草である。
[B][C][D]の分析
前触れもなくはじまった場面が全景から伯爵を選び、夫人の部屋へ入るまでの伯爵の動きを追ったところで[A]、前夜の伯爵夫人の死の状況が再現される[B]。そしてカメラは再び夫人の部屋を眺める伯爵に戻る。遺品を見やる伯爵...[C]そのうち伯爵は夫人との出会いから不幸に到るまでの二人の関係を回想する[D]。A-B-C-Dという順で語られる出来事を実際に起こった継起順序でみるならば、出会い→愛する女性の死→葬儀からの帰宅→遺品を見る、すなわちD-B-A-Cの順になる。このように前半では<語られる物語(物語内容
diégèse)>と<語る物語(物語言説 récit)>の各々の時間秩序に転倒した関係(アナクロニー)が生じていることがわかる。G・ジュネットにならって
<語る物語>の順序をアルファベット、<語られる物語>の継起順序を数字で示すならば『ヴェラ』前半の構造はA3-B2-C4-D1と記号化できる。
ここでBとDはともにフラッシュ・バックだが性質を異にしている。Bは客観的な記述による過去の説明的再現であり、伯爵の主観に直接に帰する回想ではない。「言いようのない一日がすぎた」は語り手(物語言説)による時間節約であるし、「なぜ、そんなことを?...まちがいなく、もはやここには来ないという不可思議な決意のせいだった。」は語り手による未来を先取りした説明である。それに対して、Dの方は伯爵による回想であり(「彼は過ぎ去った全生活を思い浮かべた..」)、疑問文(「はじめて彼女に会ったのは外国で、ある大使館の舞踏会のときではなかったか?」)や感嘆文(「なんというほほえみを二人は交わしたことか!」)が回想の主観性をあらわす指標になっている。Dでは<彼>は文法的な人称にすぎず、存在論的には<私>なのだ。
なぜ、こんなに入り組んだ構造が必要なのか。
A⇔BのアナクロニーはAにおいてカメラ的視線がいきなり導入されたことに起因する。カメラがとらえる生(ライフ)の現在時、だがこの現在時も所詮先立つ過去の結果
であることには変りなく、その過去についての情報を与えるためにはここでフラッシュバックがどうしても必要になるという事情がまずある。だが、それだけではない。<物語言説>のエコノミーのレベルでも考えなければならない。それにはフランス古典演劇理論が有益な示唆を与えてくれる。
古典演劇においてもまた幕が開くとすでに物語は始まっている。あるいはむしろ物語は終りかけていると言ったほうがより正確かもしれない。<時の一致>規則のためだ。これは上演時間[物語言説の時間]を表現される時間[物語内容の時間]に一致させる、もしくは近づけるという素朴(数学的)リアリズムの時間面
への応用である。このため物語内容のレベルで2〜24時間の間にすべてが起こらなければならないのだが、それには物語の起源から始めている余裕はとてもない。ではどうしたらよいか。古典演劇の選択はこうである。すでに起きた部分をできるだけ多くして、それについては登場人物の独話・対話などを通
して観客に効率的に情報を流す。舞台で見せるのは情報の量よりも質が問題となる部分、すなわち物語がクライマックスに近づいた劇的密度の高い部分に限定する。そうすればリアリズム(時の一致)、求心力の美学(筋の一致)両方に叶い、まさに一石二鳥ではないか。物語言説と物語内容との一致を目指す形式的な規則が情念の美学を逆に生むというパラドックスがここにはある。
『ヴェラ』の場合はどうだろうか。時間的な節約は「言いようのない一日がすぎた」「何時間かがすぎた」「昼、夜、週がすぎ去った」「一年がすぎ去った」といった、休止符のように『ヴェラ』のテキストにリズムを刻み込む表現によってもなされている。これは演劇の幕間、映画のフェイドアウト=フェイドインが持つ時間消費機能と同じだ(次の幕、次の場面
では5年後の話になっているかもしれない)。さらに次のような文章も節約機能を担っていることに注意したい。「レーモンは最初は唖然として、ついで一種の尊敬と愛情から、ごく自然に振舞うように工夫をこらしたので、三週間もたたないうちにときおり自分自身、自らの善意に欺かれるように感じることさえあった」「ダトルは最愛の女の死を完全に意識しないで生きていた!」ここでは一つの文がひとつの事態ではなく、複数の事態あるいは持続した状態に対応している。これはサルトルが「市民ケーン」(O.ウェルズ)論で分析した映像的半過去と物語文法的には等価である4
。歌手が巡業を行ったとする。その場合一箇所でのリサイタル光景を示せば、それは巡業全体を示す文法的価値を帯びるというのがサルトルの指摘である。だが、継起的な物語展開で用いられるこうした技法と別
の時間節約方法がある。それがフラッシュバックだ。フラッシュバックは説明的フラッシュバックにしろ回想的フラッシュバックにしろ、今挙げたような省略・反復の記号を用いずに、重要な情報あるいは劇化しうる場面
だけを取り上げることにより大幅な時間の経済を可能とするからである。ヴェラとの出会いから彼女の死に到るまでの二人の生活がダトル伯爵にとっていかに密度の高いものであったにしても、物語言説の起点をそこにおいては小説『ヴェラ』がなぞるあの求心的な運動は壊されていたであろう。フラッシュバックの使用により、物語は何気なく始まることができ、何気なく始まった物語は始めから不在の影を帯びることになる。ヒロインはその大いなる不在ゆえに物語の磁場となって記号を呼び寄せ、彼女の死に始まり彼女のちょうど一周忌に終るこの短編に<筋の一致>ばかりか<時の一致>も与え、ある種の古典美を実現することができたのだ。
以上の古典的エコノミーはC⇔Dのアナクロニーにも勿論当てはまる。だが、CからDへの移行には別
の説明も必要であろう。移行部分には近代小説的(そして特に映画的)なトポスが用いられているからである。「伯爵は身の回りを眺めた。肘掛け椅子の上には、前日脱ぎ捨てられたドレスが...」 見る主体から、その主体に見られている客体への小説的視線(カメラ)の切り返し、その結果
起こるのは読者(観客)の見る主体への同一化である。読者(観客)はドレスをそのまま見るのではなく、伯爵の視線を媒体として間接的に、つまり伯爵が見るように見るのだ。Cでは伯爵の視線がとらえるヴェラの遺品をカメラが一通
り追ったあと、内的独白(「こうして彼女は行ってしまったのだ!...でもどこへ...今でも生きているのか?...」)が挿入され、再びカメラは思いに沈む伯爵をとらえる(「そして伯爵は未知の思いのうちに沈んでいった」)。これがそのままDの回想内容(「彼は過ぎ去った全生活を思い浮かべた...」)にスムーズにつなげられることになる。つまり、読者(観客)は二重の同一化を強いられるのだ。1)見る人→見られる対象への切り返しによる見る視線への同一化、2)思いに耽ける人([C])→回想内容([D])への切り返しによる回想する意識への同一化。これはモンタージュ技法の基本である。1)は2)のための予備練習であり、CからDへの移行は小説的視線(カメラ)の基本的な運動の自然な結果
に他ならない。読む者(観る者)は物を媒介に伯爵の視線に慣らされた後、今度はヴェラを回想する伯爵の意識に知らず知らずにもぐり込む。この段階で小説的視線(カメラ)の主観化が果
たされ、ヴェラ亡き後の伯爵の心的なプロセスを追う後半([E])の物語言説の環境が整ったことになる。
[E]の分析
『ヴェラ』はこれに影響を与えたはずのポオの作品群には見られない愛の描写を含んでいる。
「二人の恋人は、精神が神秘な肉体と溶け合う、あの悩ましく邪まな歓喜の大海に身を沈めた!「...]彼らのうちでは、精神が肉体の奥深くしみ込んだので、自分らの形体が知的であるように思われ、燃える鎖の環のようなくちづけは、観念の融合で彼らを結び付けた。」
愛欲の中での観念的融合、ポオの世界とは異なりここでは対象に愛(エロス)をあまりにも投資した者が登場するのである。彼は対象の死に際してそれを引き上げ、他の投資先に向けることができるだろうか。つまり喪は可能か。
後半([E])は愛妻ヴェラ亡き後の大いなる不在の中に、ダトル伯爵が愛の力によって妻の<形>を穿つ一年間に及ぶ創造過程の物語である。中心となるのはダトル伯爵の心理的な動きであり、前半で導入され主観化された視点はしばしばダトルの心の中へ入り込む内的視線となる。
不在を埋める存在を創造する過程は同時に不在自体を否定する過程でもある。実際、ダトル伯爵の1年間は喪の否定に明け暮れることになる。例えば、ヴェラの死体を墓所におさめた後、伯爵は扉の鍵を内側に投げ入れる。また、死の直後「もう他の時刻を打たないように」振り子時計のぜんまいを壊す。だが、鍵を失うことによって墓所を訪れる可能性が絶たれるわけではない。扉はいつでも破れる。時計のぜんまいを壊すことによって時の歩みが止まるわけではない。時は時計には属さない。喪の条件である死体と死を過去化するために必要な時間、これら両者を否定する二つの破壊はいずれも象徴的な破壊にすぎない。ダトル伯爵の意識が休まない限り、死体と時間は意識自体によって志向され続けるはずだ。だが、自暴自棄というわけでもない。この象徴行為にダトル伯爵はある意味を持たせようとするからである。彼は喪(死)の否定という意図を実現しなければならないのだが、しかもそれをこちらからの意図の形では保持できない。それでは単なる虚偽になってしまう。あくまでも客観的にそうであるという状況が必要なのだ。主観(..でありたい)から発しながら客観(..である)に到達するにはどうしたらよいか。破壊は本来は意図を実現する手段なのだが、破壊の結果
により始めの意図とは無関係にそうであるという状況が生まれる。完全にそうであるわけではない。ダトル伯爵はその気になれば墓所へも行けるし、時計を修理することもできよう。ただ、彼はほぼそうである状況を生んだ二つの象徴的な破壊の客観性を信じようとするのだ。これは自暴自棄というよりはサルトルのいう「自己欺瞞
(mauvaise foi)」に近い。恋人に握られた自らの手を物化した不感症の女のように、ダトルは行為(手段)を物化する。鍵を投げ入れ、時計を壊す彼の手があたかも儀式を執り行う受身的な媒体に過ぎないかのように。喪の否定=存在の創造の第1段階はしたがって自己欺瞞の段階である。
自己欺瞞は無意識(l'inconscient)と違い、前意識(le préconscient)の層に身を潜める不完全な欺瞞にすぎない。自由間接話法5
によるダトルの逡巡は前意識(欺瞞)と意識(良識)の間を往復する。
「こうして彼女は行ってしまったのだ!...でもどこへ!...今でも生きているのか?ー何のために?...それはあり得ない、馬鹿げたことだった。」
伯爵が逡巡するということ自体、死の否定が少なくともこの時点では確信の問題ではなく、決意の問題であることを示唆している。決意をうながす契機としてヴェラの星(金星)に伯爵が目をやる場面
がある。
「『夜』は、彼には人の姿をしているように見えた。[...]『あれはヴェラ』と彼は思った。ひそかにつぶやいたその名前に、彼ははっと目覚めたように身をふるわせた。そして身を起こして、周囲を見回した。」(傍点筆者)
自らつぶやいたことに自ら驚くという仕草が成就するのは意識のすみに追いやられた願望(前意識)の客体化(意識化)である。ヴェラがまだ死んでいないとしたら...死よりも強い愛が存在の<形>を維持しつづけられるとしたら。ダトル伯爵が「ヴェラ」という名を口に出すことによって、存在の<形>がその存在性を決定的に増すことに注意したい。一年後、ヴェラの蜃気楼を消すのもやはり言葉の働きだからである。ここで伯爵の心中ではヴェラを<形>として存続させること(=死の否定)の決意が固まったのであろう。ヴェラを痛ましくも思い出させる燈明を吹き消すという最後の破壊的行為をした後、伯爵はその決意を下僕レーモンに伝える。
「『レーモン』と、伯爵は静かに言った。『今晩は、わたしたちは死ぬほど疲れている、伯爵夫人もわたしも。だから夕食は十時ごろにしてくれ。』」p.161
伝えると言ってもすでに存在する事態を説明するためでは勿論ない。ここでは言うこと自体がある事態を招来させるのだが、しかも「なにごとも起こらなかったかのようにほほえんでいる」伯爵はその新たな事態をすでにある既成事実として提示するのである。これは一種のスピーチ・アクト(J.L.オースチン)である。「約束するよ」という文は約束という行為を記すだけでなく、その文を発すること自体が話者の行為の遂行である。ここでの伯爵のせりふの機能も状況を記述するふりをして状況を創り出すことにあるのだが、創り上げようとする状況を既成の状況、物化された状況として示し、しかも他者を否応なくその証人に仕立て上げようというのであるからこれは共犯関係を支えとした巧みな自己欺瞞でもある。したがって、喪の否定の第2段階は自己欺瞞的スピーチアクトの段階と名づけることができる。
ダトルの幻の存在を支えるという決意はある時点から彼の確信、ヴェラは存在するという確信に変わる。彼は愛妻の死をまったく忘れて暮らしている。「彼女がつねにそこにいるとしか思えなかった。それほどまでに若い妻の形は、彼の形と混じりあっていたのである。」二人が愛欲の中で果
たした「観念の融合」が存続し続ける。
ヴェラは霊として本当に存在するのか、あるいはダトル伯爵が夢見ているのにすぎないのか?伯爵が確信し始めたヴェラの存在も物語言説上では相変わらず曖昧なままである。その存在の客観性を確かめようとする伯爵の仕草を拒むかのようにヴェラの映像はすっと消えてしまう。
「一度、ダトルはかたわらにはっきり彼女を感じ、また見たので、腕に抱き締めた。だが、その動作により彼女は消えてしまった。『子供だね!』と、彼はほほえみながらつぶやいた。そして眠くなった笑い上戸の愛人にはねつけられた男のように、また眠りこんだ。」
映像の消滅を彼女(対象)の意志によるとするのはすでに自己欺瞞(前意識)の所作ではない。ダトルは最愛の子供を亡くした母親がその死を否定し子供に話しかけ続けるのと同じように、すでに「幻視者」として「病的な喪」(フロイト)を生きているのだ
。
「まばたきするあいまに、稲妻のようにかいま見られるやさしく青ざめた顔[視覚]。突然ピアノでたたかれるかすかな和音[聴覚]。彼が語りだそうとする瞬間、口をふさぐくちづけ[触覚]。彼の言葉への答えとして、心の中に浮かぶそれとつながりある女らしい考え[共感/憑依]。[...]自分のかたわらに最愛の女のめくるめくばかりに甘美な香りを感じるのだった[臭覚]。」(傍点および[]内は筆者)
全感覚を動員してのヴェラの蜃気楼、その創出を維持しているのはこの段階ではひとえにダトルの意志力である。ヴェラの存在を信じること、それはダトルが世界を維持するための唯一の道なのだ。第3段階は幻視者の段階である。ここに来て、物語としては二つの選択肢がある。存在しないものが存在する絶体矛盾の世界にダトルを投げ込むか、不可能な存在を求めるダトルの願望を客観的に実現するか、つまり狂気か魔法か。物語は後者を選ぶ。かくして、ダトルの意志力は「未知の力」にまで高められることになり、それと同時に心理分析の対象であることをやめる。「愛は死よりも強し」という冒頭のソロモンの言葉が本来の比喩的意味(「愛は迫り来る(あるいは到来した)相手の死をものともしない」)を脱し、字義通
りの意味(「愛の力は死者をも蘇らせる」)になるのはこのときである。
「不吉なゲーム」はその磁力を増し、ダトルはこのゲームを真に生きることになる、と同時に存在の<形>が実在し始める。
存在の<形>がもっともその密度を増すクライマックスはちょうど一年後にやってくる。一周忌の日、ヴェラを生前取り囲んでいた事物がまずヴェラの存在の形跡を示す(真珠は「まだ温かく」、ハンカチについた血の雫は「赤く濡れて」いる)。ダトルの破壊行為すら一年間の眠りから醒めたかのように打ち消される(燈明は「またともされ」、「一年前からとまっている振子時計が時を打った」)。死の主観的否定は確実に死の客観的否定に道を譲りつつある。伯爵はこうした超自然的現象を驚かずに眺める。と同時に、一種の論理的転倒により、存在が形跡を残すかわりに形跡がヴェラの存在を招くことになる。
「『彼女』はここに、この部屋にいなければならぬ」
召喚に答えようとするヴェラの視点がここで導入される。
「ヴェラ伯爵夫人は、冥界の闇の底から、自分の香りに満ちたこの部屋にもどってこようと涙ぐましい努力をしていたのである![...]彼女もまた、夫のもとへ来たいと願っていた![...]すべてが久しい以前から、知らず知らずのうちに彼女をここに招き、引き寄せていたので、ついに眠れる『死』から回復した『彼女』だけしか、もはや欠けているものはないのだった!」
こうしてヴェラは復活する。第4段階ではもはや幻視ではなく、超自然的事象が実際に起こるのだ。精神が物理的な力をもち得ないとする近代合理主義に対する違反が実にあっけらかんとなされる。しかもそれをヒーローは驚かずに眺める。物語言説に導かれる読者にも驚きはない。一体どういうことだろう。これは心理の問題ではなく、実はジャンルの問題である。
『ヴェラ』がポオの影響を受けていることは知られている。愛(意志)による魂の復活をテーマとしているポオ作品としてまず挙げられるのは『リジイア』であろう。「愛は死よりも強し」という『ヴェラ』のエピグラフはそもそも「人もその繊弱い意志の甲斐なさによらぬ
かぎりは、天使にもまた死にも、屈従しおわるものではない」という『リジイア』のエピグラフ(これはヒロインの臨終の言葉でもある)を受けたものではないか。だが、決定的な違いも両者にはある。『ヴェラ』と異なり『リジイア』で意志を働かせるのは復活するヒロイン(リジイア)自身であり、後妻(ロウィーナ)を暗殺し、しかもその死体を媒体に復活を試みる『リジイア』には怪奇性が極めて色濃い。物語のトーン、すなわちジャンルの点で見る限り『ヴェラ』が近いのはむしろポオの<愛と死>の四部作では最後に書かれた『エレオノーラ』である。怪奇性がまるで見られず、「驚き」も「怖れ」も一切ない世界を描く『エレオノーラ』には、また、ポオの世界には珍しくエロチックな言及さえある(「私たち二人は蛇のような木の下で、互いに強く抱き合いながら...」)。病死したヒロインが霊として現れるその表われ方も似ている。ヴェラもエレオノーラもあくまでもヒーローの希求に応じる形で霊として現れるのであり、現れても淡い存在としてヒーローを母のように見守るだけである。そこには怨念は一切感じられない。エレオノーラがアーメンガードの出現とともに身を引くように、ヴェラも一周忌を最期に姿を見せなくなる。エレオノーラもヴェラもともに亡霊(ghost)というよりはマリー・ド・フランスのレーに登場するような妖精(fairy)に近い。一言で言うならば『ヴェラ』も「エレオノーラ」も怪奇物語というよりは妖精物語なのだ。『ヴェラ』は近代の妖精物語なのである。
結び
物語を何気なく開始させた近代的な視線(カメラ)が徐々に主観化され、ヒーローの内的な変化をたどる心理的な視線となる。亡きヴェラを求める意志は自己欺瞞段階を経て、次第に確信の方向へ強化され、臨界点に達したところで奇跡が起こる。しかもこの奇跡を驚かずに眺める視線は前近代的なものだ。不合理を前に、近代ならば自らが依ってたつ合理的基盤の瓦解を怖れるはずだからである。妖精物語は中世の名残である。ただ、『ヴェラ』はそこでは終らない。復活は一時的なものにすぎず、二人の忘我の接吻の後、決定的な覚醒がいきなり訪れる。
「突然、ダトル伯爵は身をふるわせた。ふと何か不吉なことを思い出したように。『ああ、そうだった!...』と彼は言った。『何をぼんやりしていたんだろう。ーおまえは死んだのだったな!』この言葉が発せられたとたん
、聖檀のあのふしぎな燈明が消えた。[...]燦然たる夢を織りなす磁力の糸を、彼はただの一言で断ち切ってしまったのだ。あたりにはすでに死者の気がただよっていた。」p.168
一年間におよぶ意志力の成果であったはずのヴェラの復活はたったの一言でふいになってしまった。ダトル伯爵の一言は宙づりにされた時間をリアル・タイムに戻す玉
手箱となった。催眠術で延期された<死>が術が解かれると同時に被術者を訪れ、今までの遅れを一挙に取り戻すかのように彼を急激に腐乱死体化するように(ポオ「ヴァルドマール氏の病症の真相」)、魔法を解く言葉が発せられると同時にヴェラが復活した室内にはすでに「死者の気」がただよっている。近代の妖精物語も魔法からの覚醒によって終るのだが、覚醒の後成就するのはもはや結婚ではなく、喪である。亡きヴェラを<形>として再生させるための一年間は実は彼女の喪を成立させるために必要な期間だったのだ。喪の条件のひとつである、死を過去化するための時間がかくして回復された。残るは死体である。ダトル伯爵がおこなった死体の象徴的否定の仕草を想起してみよう。彼は一年前、ヴェラの墓所の鍵をその内側へ投げ入れたのであった。物語の最後に起こる事態とは、まさにその鍵がダトル伯爵の足元にどこからともなく投げられ、喪を完成させるというものである。
1 紋章学的記述はテキスト内での価値とは別に作者個人の貴族趣味とも関わりがあるようである。「ヴィリエは己の家柄に伝説的な起源を付け加えたうえ、シャルル六世下に世を去ったヴィリエ元帥と、マルタ島騎士団最後の大総長の直系の子孫であると思い込んでいた。しかしながら...紋章学者らの主張するところによると、この両ヴィリエが子孫を残した事実はないとのことである。」マルセル・シュネデール『フランス幻想文学史』p.365
2 R.Barthes, La chambre claire, Cahiers du cinéma/Gallimard/Seuil, 1980.
3 J.-P.Sartre, "Le visage", repris par M.Contat et M.Rybalka dans Les Ecrits de Sartre, Gallimard, 1970.
4 J.-P.Sartre, "Quand Hollywood veut faire penser", repris par O.Barrot dans L'Ecran français 1943-1953, Les éditeurs français réunis, 1974.
5 自由間接話法は内容が登場人物と語り手のどちらの審級に属するのかを曖昧なままにおく。
参考文献
使用したテキストは次のとおり。Villiers de l'Isle-Adam, Véra ( P.-G. Castex, Anthologie du conte fantastique français, José Corti, 1963 所収)。邦訳(『ヴェラ』)は窪田・滝田編「フランス幻想小 説傑作集」白水Uブックス所収。
[A]の分析
R.Barthes, S/Z, Seuil, coll.<Point>, 1970.
R.Barthes, "Analyse textuelle d'un conte d'Edgar Poe" dans L'aventure sémiologique, Seuil, 1985.
A. Bazin, "Ontologie de l'image photographique" dans Qu'est-ce que le cinéma? (éd.définitive), Ed. du
Cerf, 1981.
[B][C][D]の分析
G.Genette, Figures III , Seuil, 1972.
J.Schérer, La dramaturgie classique en France, Nizet, 1950.
[E]の分析
J.-P.Sartre, La Transcendance de l'Ego, in Recherches Philosophiques, n° 6, 1936. Rééd. avec une
introduction, notes et appendices par Sylvie le Bon, J.Vrin, 1972.
J.-P.Sartre, L'Etre et le Néant, Gallimard, 1943. Rééd. coll.<TEL>, 1976.
J.Laplanche, J.-B.Pontalis, Vocabulaire de la psychanalyse, P.U.F., 1967. (5e éd.revue 1976)
T.Todorov, Introduction à la littérature fantastique, Seuil, coll.<Points>, 1970.